奴隷解放宣言(1863)
黒人に対しても白人と同等の権利を認める奴隷解放宣言は、第16代大統領リンカーンによって発布された。
この宣言は黒人にとっては画期的な出来事であった。
しかし、南部において黒人に対しての人種差別がなくなったわけではなかった。
奴隷解放宣言が出されたことによって、黒人に対する差別がなくなったような印象を
日本人は受けやすいが、差別というのはそんな簡単な問題ではないということをここでは、意識させたい。
公民権運動のことを理解するためには、リンカーンが出した奴隷解放宣言のことを知っておいた方がいい。
何故、リンカーンは、奴隷解放宣言を出したのか? それは、南北戦争(1861〜1865)に勝利するためであった。
アメリカ南部においては、イギリスの産業革命の進展にともなって、綿花の需要が高まった。
もともと、南部は、綿花の栽培に気候・土地が適していた。
しかし、綿花栽培は、及び、綿花の採り入れは、過酷な労働であり、また、大量の労働力を必要としていた。
そこで、その労働力を確保するために、アフリカからの黒人奴隷労働が導入されるようになったのである。
綿花の輸出を重要な産業とする南部において、黒人奴隷制度はなくてはならないものであった。
しかし、アメリカ北部においては、工業が発達し、北部においては自由労働の確保が重要であった。
そして、奴隷問題というのは、アメリカの建国理念にかかわる大きな問題であったのだ。
黒人奴隷を必要としない北部にあって、南部の奴隷制度は建国理念を裏切るものであった。
よって、奴隷制度反対の動きは、北部中心に行われていた。
19世紀のころのアメリカは、まだまだ開発途上の国家であり、西部に向かって新しい州が次々とできていた。
ところが、新しい州が登場するときに、一番の問題になることは、その州が奴隷制度を採用する州、すなわち、奴隷州になるか、
それとも、奴隷制度を採用しない自由州になるか、州が誕生するとき、いつも問われる問題であった。
すでに、自由州であった州は、新しく州が誕生する場合、自由州になることを望み、すでに奴隷州であった州は、奴隷州になることを望んだ。
このように、アメリカにおいて、自由州と奴隷州の対立が次第に激しくなっていった。
自由州の多くは、北部に存在し、奴隷州の多くは南部に存在した。1860年代になると、
この問題はアメリカにとって、避けて通れない問題となった。
そして、1861年に南北戦争が勃発した。リンカーン大統領は、北部側に立って、北部に勝利を導くために、奴隷解放宣言を出した。
このことによって、多くの黒人が、北部に立って、戦争に参加し、また、南部の綿花農場から逃げ出した。
このことは、北部に有利に働き北部を勝利へと導いた。
奴隷解放宣言後の南部
人種差別は、奴隷解放宣言後に南部において激しくなったのだ。
この奴隷解放宣言は、南部の黒人奴隷に対して、自由を保障した内容であった。
これによって、黒人の間に、自由が訪れるかと思われたが、実際には、多くの問題を残した。
奴隷解放宣言後の南部は、どのようであったかといえば、ジム・クロウ法という人種差別法が、南部の州に次々と生まれていった。
このジム・クロウ法は、生活の隅々まで、人種差別する法律であった。
交通機関、レストラン、トイレ、水飲み場、学校、娯楽施設などいたるところ法律によって、黒人(有色人種)に対する差別が行われた。
ジム・クロウ法の成立
南部諸州における人種差別法をジム・クロウと呼ぶようになった。最初は、交通機関の差別から始まった。
しかし、その差別は生活全般にわたった。いたるところにおいて、黒人は差別された。それが法律化されているのである。
KKK(クー・クラックス・クラン)の設立
あの悪名高きクー・クラックス・クラン(KKK)が設立したのも、奴隷解放宣言の後である。
テネシー州のプラスキーで、1865年に結成された。旧南軍の士官が中心。あくまでも、黒人を抑圧するための団体である。
彼らは、頭から三角帽の覆面をすっぽりかぶり、幽霊のようなガウンを全身にまとって、
深夜、町の中を徘徊し迷信的な黒人を恐怖に陥れた。彼らは、黒人の家を襲い、ときには、リンチし殺害した。
クー・クラックス・クラン(KKK)などの白人の人種差別団体によって、どれくらいの黒人が殺されたかは、
天国の神様にしか分からないとさえいわれている。つまり、彼らは暴力によって、黒人を自分たちの思い通りにしようとした。
「プレッシー対ファーガソン事件」判決(1896)
そして、このような南部の差別をあと押ししたのは、プレッシー事件の判決であった。
この判決内容は、「分離しても、平等にせよ」というものであった。
この判決は、ジム・クロウ法など人種差別体制を正当化してしまいその後の南部に大きな影響を与えてしまった。
NAACP(全国黒人向上協会)の設立(1909)
しかし、そんな中でも、人種差別に対して抵抗する動きはあった。
特に、1908年は、白人の暴力に対して、大変な人種暴動が数多く起こった年でもあった。NAACP(全国黒人向上協会)の設立である。
これは、リンカーン生誕100周年を記念して、1909年に白人の呼びかけによって、著名な白人及び黒人53人の署名のもとに結成された。
NAACPは、リンチ撲滅運動や法廷闘争を行うことによって、人種差別をなくす戦いをする団体である。
特に、人種による学校分離反対の運動は一定の成果が見られた。
しかし、白人が主導権を握っているNAACPには、懐疑的な黒人もいたことは確かである。
最高裁判決(1954)
ブラウン判決=「公立学校における分離教育は違憲である」
この判決が、黒人たちに与えた影響は大きい。
南部に住む多くの黒人たちは、最高裁は自分たちの味方になってくれると勇気づけられた。
しかし、南部において差別をなくすためにに、あまり、急ぎすぎると白人たちの激しい仕返しがあることを
十分知っていた黒人は機会が来ることを待っていた。
新しい一歩
第二次世界大戦後、1954年に、歴史的な最高裁の判決が出た。ブラウン判決という。
「公立学校における分離教育は、違憲である。」という判決であった。この判決は、黒人たちの間に大きな勇気と希望を与えた。
しかし、ことを急ぎすぎると南部の白人を刺激する恐れはあった。しかし、確実に変化は起こりつつあった。
ミシシッピー州マニーにおいて、陰惨な事件が起こった。エメット・ティル少年殺害時件である。
この時、少年の叔父モーズ・ライトは、勇気ある行動をした。それまでの南部の黒人には見られない行動であった。
法廷で証言したのだった。法廷で証言することは死を意味したが、しかし、叔父モーズ・ライトは、死を覚悟しながら、
白人が犯人であることを証言したのだった。結果は、白人の勝利に終わったが、南部においては歴史的な一歩だった。
モントゴメリー・バス・ボイコット運動
ローザ・パークス夫人の逮捕
M・L・キングの牧師就任
公民権運動の出発となった町、それがアラバマ州モントゴメリーである。アラバマ州は南部の中で最も人種差別の厳しいところであった。
そんな南部の町に1954年10月31日(宗教改革記念日)に牧師としてやってきたのが、M・L・キングである。
彼は、幼いときから優秀であり、姉が大学に進むときに一緒に15歳で進学した。
まず、彼はモアハウス・カレッジに入学した。大学時代の彼は、普通の学生であった。
「どちらかというと静かで控えめで、教室の後ろの方で、講義を聴いているという学生であった。」 清水書院「マーティン・L・キング」
しかし、M・L・キングは、この大学で将来の関する大きな影響を受けた。
彼に強い影響を与えた人物は、ジョージ・ケルジー教授とベンジャミン・メイズ学長であった。
「二人ともキリスト教を魂の救済と、社会的妥当性の両面に相関するダイナミックな宗教として理解しており
M・L・キングは彼らを通して、牧師職は単に心情を鼓舞するための職務であるだけでなく、
知的にも十分意味のある職業であると考えるようになった。」 清水書院「マーティン・L・キング」梶原寿
それまでの彼は、弁護士になろうか、牧師になろうかと迷っていた。
しかし、彼らとの出会いを通して、自分は、将来牧師になることを決意し、両親にそのことを伝えた。
キングは、神学の学位を取得するために、ペンシルベニア州チェスターにあるクローザー神学校に進学することを望んだ。
しかし、モアハウス・カレッジの時代のキングの成績は、そんなに優秀ではなかった。
大学教授達の推薦状もあって、彼は彼の希望するクローザー神学校に進むことができた。
クローザー神学校に入学してからの彼は、まるで別人のように学問に勤しんだ。3学年の時は、オールAという成績を収めている。
いろいろな思想の出会いもあり、それについての彼の考察も為されている。
後年の彼の行動を考えてみると、ガンジーの非暴力との出会いは、彼の人生にとって欠くことのできないことかも知れない。
クローザー神学校において、真剣に学んだキングは、教授達の推薦もあり、大学院に進むことになった。
大学院に進むにあたり、3つの大学が考えられたが、その中のボストン大学の大学院に進むことになった。
このボストン大学在学中に、彼は生涯の伴侶である、コレッタと出会うことになる。彼女との出会いは、
「アトランタ時代以来の級友の一人で、当時ニューイングランド音楽院で学んでいたメリー・パウェル夫人に、
自分がボストンで出会っている女性たちは南部で知っていた女性の比ではないと、胸中の気持ちを漏らした。
するとパウェル夫人は即座に、彼を同じ音楽院で学んでいるアラバマ州出身でオアハイオ・アンティオク・カレッジの卒業生、
コレッタ・スコットに紹介しようと申し出た。」 清水書院「マーティン・L・キング」梶原寿
キングは、その日のうちに彼女に電話し、一緒に食事をする約束をとりつけた。そして、半年後には、彼女と結婚式を挙げた。
大学院終了後の就職について、ボストン大学のスタッフは、キングに大学の教師の道に進むことを勧めた。
しかし、彼の心は牧師になることを心に決めてていたので、それを断った。彼は、南部に帰って牧師になるつもりでいた。
父のダディ=キングは、アトランタの自分の教会エバニーズ・バプテスト教会の共同牧師になるように提案した。
そして、モアハウス・カレッジの教師の地位も確保していた。しかし、キングはその申し出を断って、
アラバマ州モントゴメリーのデクスター・アベニュ・バプテスト教会の要請を受け入れ、1954年10月31日に就任した。
ボイコット運動以前のモントゴメリー黒人社会
黒人指導者の団結不足
キングに言わせれば、モントゴメリーの黒人社会には、南部の黒人社会一般に見られるように、白人と黒人の間には、大きな溝があった。
たとえば、NAACPの会員もすべて、黒人であった。
このような中で、黒人社会はどうであったかというと、黒人社会もまた、団結力に欠けていた。
特に、指導者の間の分派主義は、人種差別をなくすための黒人側の運動を阻害する要因であった。
いくつかの民間市民団体があったがそれぞれバラバラに活動していた。
「いくつかの民間団体があったが、それらはいずれも互いに反目し合っていた。
たとえば、進歩的民主主義者団と称する団体はE・D・ニクソンに指導されていたし、市民委員会はラファス・ルイスに、婦人政治会議は
メアリー・フェアー・バークス夫人とアン・ロビンソンに、全国有色人向上協会はR・L・マシューズにそれぞれ指導されていた。
その他にも小さな団体があって、黒人社会をいっそう細かく分裂させていた。
これらの各団体の首脳者はいずれも共通の目的を持つ有能で献身的な指導者ではあったが、それぞれ別々の団体に忠実であったために、
一段と高度の統一の基礎の上に彼らが協力することはきわめて困難だった。」 岩波新書「自由への大いなる歩み」M・L・キング
教育ある人々の無関心
また、黒人の教育ある人々も、人種差別に関しては無関心を装っていた。
その無関心は、恐怖に基づくものであった。自分たちの安定した今の生活を失いたくないという恐怖に基づいたものであった。
「こうした無関心な気分は一部の恐怖に基づいていた。教育ある人々の中には非難を受けやすい職業に雇われていて、
もし人種的正義の領域で正直な態度をとったらくびになる恐れがあったのだ。
だから、教育のある人々の多くは、自分たちの安定した経済生活を危うくすることを避けて、
現状を変更しようとする一切の運動から離れていようとしていたのだ。」 岩波新書「自由への大いなる歩み」M・L・キング
教育のない人々の消極的態度
そして、教育のない人々もまた、人種差別に対しては、消極的な態度をとっていた。
最も、差別のひどいところにおかれている彼らが、声を上げようとしていなかったことに、最初キングは驚きを覚えたようだ。
しかし、モントゴメリの黒人たちは、どのような侮蔑をうけても黙ってしたがっていたのだ。
教育のない人たちのこのような消極的な態度も、白人の報復を恐れてのことであった。
モントゴメリーにおいても、他の南部の州と同じく交通機関における座席の差別が行われていた。
バスの場合、たいていは、お金は前のドアからはいって、運転手に払うと黒人は、またバスの外に出て、
後ろのドアから入らなければならなかった。後ろのドアからはいるまでに、バスが発車してしまうことがあった。
また、バスが混み合ってくると、黒人は白人に席を譲らなければならなかった。
デクスター街のバプテスト教会の僕の先任者のヴァーノン・ジョーンズ師は、当時の黒人たちの態度を例証する
一事件について次のように語っている。
ある日、彼はバスに乗って、白人だけにとっておかれている前方の座席の一つに座った。
バスの運転手が後部の席に移すことを要求したが、ジョーンズ師はこれを拒絶した。
そこで運転手は彼にバスを降りろと命令したが、再びジョーンズ師はこの命令を拒絶し、
ついに運転手はジョーンズ師が支払った運賃を返すことに同意した。
バスを降りる前に、ジョーンズ師は通路に立って、バスに乗っていたたくさんの黒人に
「抗議のしるしとして僕と一緒にバスを降りて下さいませんか」と頼んだ。だが誰一人彼の要求に応ずるものはなかったのだ。
ローザ・パークス夫人の逮捕
1955年12月1日の木曜日夕方その出来事は起こった。パークス夫人は、勤めから帰宅の途中であった。
いつものように、バスに乗り、バスの後ろの方の席に座ることができた。しばらくすると、バスが混んできた。
すると、バスの運転手が、パークス夫人にその席を白人に譲るようにと命令した。自分以外の黒人は、すぐにその命令を受け入れ、
白人に席を譲った。しかし、その日のパークス夫人はこの命令に対し、受け入れることを拒否したのだ。
バスの運転手は、警察を呼ぶぞと脅したが、パークス夫人は、頑として動かなかった。
バスの運転手は、警察を呼び、パークス夫人は逮捕された。パークス夫人の逮捕のニュースは、黒人指導者たちに伝えられた。
指導者の一人E・D・ニクソンは、さっそく彼女を保釈するために、警察に出かけた。
その時、人種問題に理解ある数少ない白人弁護士クリフォード・デュア夫妻を同伴した。
ニクソンは、その時、これを機会に、バスの座席差別をなくそうと考えた。パークス夫人に理解を求め、
そして、黒人の指導者たちに連絡を取った。この中で、最も積極的だったのは、2、3人の婦人たちであった。
彼女たちは、電話でひとしきり話した後で、黒人たちはバスのボイコットをすべきだという考えに達した。それをニクソンに伝えた。
ニクソンは、次の日(12月2日)の朝早く、その考えをキング牧師とラルフ・アバナシー牧師に伝えた。二人は、ニクソンの考えに同意した。
そこで、キングとアバナシー牧師の呼びかけで、その夜、指導者たちの会合を持とうということになった。
キングたちは、どれだけの指導者が集まるかは疑問であったが、行動を起こした。
その会合には、キングたちの予想に反して、呼びかけたほとんどの指導者が集った。
その話し合いの中で、バスのボイコットが決定された。そこでは、ボイコットをどれくらいの期間するかについては、
12月の5日、ボイコットを初めてする日の夜に大衆集会を開くので、そこでそれくらいボイコットを続けるか決定しようということを決めた。
この決定をモントゴメリーに住む黒人全体に伝えるという困難な仕事が残った。そこで、パンフレットをつくるということになった。
パンフレットの内容は、こうである。
12月の5日の月曜日には、職場に行くにも、町に行くにも、学校に行くにも、その他どこに行くにもバスには乗るな。
またまた黒人の一婦人が、座席をゆずることを拒絶したために逮捕され、投獄された。月曜日には、職場に行くにも、
町に行くにも、学校に行くにも、その他どこに行くにもバスには乗るな。
仕事に出かけるときは、タクシーに乗るか、相乗りするか、さもなければ歩け。くわしい指示を受けるには
月曜日の午後七時にホルト街のバプテスト教会で開かれる大衆集会に来たれ。」 岩波新書「自由への大いなる歩み」M・L・キング
しかし、よく考えてみると、このようなパンフレットを受け取ったとしても、実際行動するかどうかは、主催のキングでさえも疑ったと思われる。
ところが、この不可能とも思われることに挑んだのである。約4万人もいるモントゴメリーの黒人たちに、
この情報をうまく伝えることが可能なのか。意外なところから、このことは可能になった。
しかし、反対者の手によって。このパンフレットを受け取った黒人の家政婦さんが、白人の主人にこれを手渡して、
読んでもらおうとしたのだ。この主人は、これは大変なことが起こるとこの情報を地方新聞に知らせたのだ。
その内容を地方新聞が土曜の朝の一面に載せたのだ。これが逆に幸いした。
この記事を読んで、それまでこの計画を知らなかった黒人までもがこの計画を知るようになった。
しかし、知ったからといって行動する保障は何もない。この計画を主催した人々は、12月4日の夜は眠ることができなかったであろう。
運動の開始
歴史的な朝―12月5日
それは、月曜日の朝だった。きっと、主催者だったキング牧師をはじめ、この計画を主催した人たちは、
バスの中は一体どうであろうかと期待と不安を混じり合わせながら、バスが来るのを待ったことだろう。
「いよいよ月曜日の朝、妻と僕とはいつもより早く目を覚ました。僕たちは、とび起きて、五時半にはすっかり着物を着替えた。
抗議の日は、すでに到来したのだ。僕たちは、ここにその幕を切って落とそうとしているドラマの第一幕を自分の目で眺めようと決心した。
僕は、未だに、もし60%の協力を得られれば、この計画はまずまず成功と言っていいだろうと思っていた。
幸運にも、バス・ストップは僕たちの家からわずか5フィートの所にあった。
つまり、僕たちは正面玄関の窓から、開幕の舞台を見ることができるのだ。始発のバスは6時頃通ることになっていた。
そこで、僕たちはそれまでの30分間じっとして待っていた。僕が台所でコーヒーを飲んでいたら、
「マーティン、マーティン、はやくいらっしゃい」と大声で呼ぶコレッタの声が聞こえた。
僕は、コーヒー茶碗をすてて、居間にかけつけた。正面の窓に近づくと、コレッタが喜ばしそうに、ゆっくりとやってくるバスを指さしていった。
「あなた、空っぽよ!」僕はこの目で見たものをほとんど信ずることができなかった。」 岩波新書「自由への大いなる歩み」M・L・キング
この後、キングは、自動車に乗りモントゴメリーのあちこち見て回るが、バスには黒人は全く乗っていなかったと
「自由への大いなる歩み」という本の中で書いている。バスのボイコットは、大成功したのだ。
モントゴメリー改善協会の結成
キング牧師、会長となる。
12月5日は、キングにとっては大変な一日であった。夜行われる大衆集会までに、決定しなければならないことがたくさんあった。
そして、主催者側は、不安を感じていたのだ。いったい、この運動は、どこに向かっていくのだろうか?
今回の運動を計画した人たちが、夕刻の大衆集会を計画するために午後から集まっていた。
E・D・ニクソンは、他の指導者たちにこの運動を中心にになっていく中心的な組織を作らなければならないという話をしていた。
この話は人々に受け入れられ、新しい組織の役員選びになった。その時、誰かが、委員長はキング牧師がよいと指名したのだ。
そして、数分のうちに満場一致で、委員長に選ばれたのだ。
最初の大衆集会―アメリカ民主主義の栄光
その日に行われる大衆集会まで、時間がなかった。その大衆集会は、ホルト街のバプテスト教会で行われることになっていた。
キングは、メッセージをする場合、かなり時間をかけて、準備をしていた。しかし、このときは、20分くらいしか時間がなかった。
そんな中でも、キングは黒人たちの心を揺り動かすメッセージをした。特に、印象に残る言葉は、
「ただ私たちはここで暴力を鼓吹するものではないことを鮮明にしよう。私たちはそのことにすでに打ち勝っている。
私はモントゴメリーの人々にもこの国全体の人々にも、私たちがキリスト教徒であることを知ってもらいたい。
私たちはキリスト教を信じている。イエスの教えを信じている。私たちが今晩手にしている唯一の武器は抗議の武器である。
そして第二に、このことはそのあらゆる過ちにも関わらず、アメリカの栄光であるということである。
これはわが民主主義の栄光である。・・・・・・・・もし仮に私たちが全体主義体制の地下牢に閉じこめられているとしたならば、
このようなことはできないであろう。だが、アメリカ民主主義の栄光は、正しいことのために抗議できる権利である。・・・・
それ故私たちの行動は間違ってはいない。もし私たちが間違っているとすれば、この国の最高裁判所が間違っている。
もし私たちが間違っているとすれば、合衆国憲法が間違っているのである。またもし私が間違っているとしれば、
全能の神が間違っていることになるのである。・・・・」 新教出版社「約束の地をめざして」梶原寿
このメッセージの中で、キングはどのようなことを明らかにしたのか、それはこの運動が、白人たちが行うような暴力によるものでないこと。
そして、自分たちが行っているこの行動が、正義に基づくものであることを黒人たちに明らかにしたのだ。
キングのスピーチが終わったあとで、バス会社と市当局に自分たちに要求を訴えた。要求の内容は、次の通りである。
バス会社と市当局への訴え
バス運転手による礼儀正しい取り扱いを乗客に保証すること。
乗客は先着順に黒人は後方の席から、白人は前方の席からつめる原則を確立すること。
黒人乗客が圧倒的に多い路線には黒人運転手を雇用すること。
非暴力主義抵抗の提示
キングは、この運動において、今までの人種差別の闘いとは、全く違った闘い方を黒人たちに示した。
それが、非暴力主義抵抗という闘い方である。この闘い方は現在においても、市民運動に大きな影響を与えていると思われる。
この時点で、キングが示した非暴力の闘い方は、次のようである。
相手の身体には、絶対攻撃を加えない。
しかし、相手の心・精神には、大いに働きかける。特に、相手の良心には、良心を持って働きかける。
反対者に友情と理解を求める。
攻撃目標は、人間ではなく悪そのもの。
苦痛を受け入れる。苦痛というものは、人間を教育し、変化させる力を持っている。
反対者を憎むことさえ拒絶する。
宇宙は正義味方するという確信を持つ。岩波新書「自由への大いなる歩み」M・L・キング
私は考えるに、アメリカという国は暴力によって成り立っている国家だと思う。
つまり、自分の身の安全は自分で守るということを前提としている。ほとんどの人は、そのことは正義だと思っている。
特に、白人は。そして、そのことはアメリカの誇りでもあったわけだ。
そのような中で、非暴力を訴えていくということはかなりの困難もあったと思われる。
何故なら、暴力が善となる場合、暴力を使わない場合、弱虫と映るからだ。
黒人の間では、特に、差別の激しかったモントゴメリーの黒人には、すんなりと受け入れられていく。
何故、モントゴメリーの黒人たちには、この非常に危険な考え方が受け入れられていったのかはわからない。
しかし、黒人たちは、勇敢に誇り高く行動したのだ。非暴力抵抗というのは、誇り高く行動しないと効果がないのかも知れない